ホワイト・ノイズ

日常の哲学をつづるエッセイ

旋回する老木

 

先日、縄文杉を見に屋久島へ行った。朝六時に登山口に入り、往復およそ十時間のトレッキング行程だ。このところコロナ禍で観光客が減っていたのが、キャンペーンもあって少し客足が戻り、入山者は約二百名。多すぎず、少なすぎず、ちょうど良い人数だった。

 

ひと月に三十五日雨、と言われる屋久島だが、当日は雲ひとつないさわやかな秋晴れだった。まだほの暗い夜明け前、トロッコ道を歩き始める。しばらくすると背後の山のはざまから陽が昇り、山々が黄金色に輝きだした。道端には、黄色いヤクシマノギク、白いサザンカ、桃色のサキシマフヨウの花、真っ赤なマムシソウの実などが美しい。かつて林業の前線として栄えた廃村や、吽形は倒れたが阿形が今も立つ仁王杉を過ぎ、二時間ほど歩くと、その先は登山道だ。翁杉の倒木、ウィルソン株、大王杉、夫婦杉と巡っていく。谷の向こうに翁岳と宮之浦岳が近く望まれる。三時間ほど、標高千三百メートルのところまで登っていく。

 

足の疲労がかなりきつくなってきたころ、ようやく縄文杉に着いた。高さ三十メートル、幹回りの太さ十六メートル、推定樹齢三千年から七千二百年。かつては近くに寄って触れることもできたそうだが、今は保護のため十メートルほど離れた周囲にデッキが設けられていて、そこから見ることになる。それでもあまりに巨大で、その全体を一望のもとに収めることはできない。

 

目の当たりにした縄文杉の偉容は、他の杉とは一線を画すものだった。文字通り縄目のようによじれる木肌が、陽に青白く輝いている。樹身には多くの他の木が着生し、まるでひとつの要塞がそびえているようだ。あるいは、のたくる怪物が立ち上がったようにも見える。

 

人工的に手入れされてまっすぐに伸びた材木用の杉などとは、まったく異なるその魁偉な姿。それは、この木の生命が一直線に目的へと向かうのではなく、渦を巻くように、何度も立ち返っては、少しずつ変化を積み重ねていったことをあらわしている。無数の深い皺や瘤のひとつひとつに、さまざまな出来事や偶然が編みこまれている。そうした乱動をすべて呑み込みながら、木はこの島の山の奥深く、この地にじっと立ち続けてきた。

 

私は許された時間、ただ視覚、聴覚、嗅覚をめいっぱい開いて、縄文杉と対峙していた。周りでは人々が、せわしなく記念写真を撮っている。木の方は泰然と、撮られるに任せている。その間にたたずんでいると、次第に、その節くれ立った木肌が、まるで鋼鉄の鎧のように私たちのまなざしをはね返しているように思われてきた。不動のまま立ち尽くし、その時々の偶然のくすぐりを、穏やかに受け入れる大樹。一方で、そうした邂逅をそのまま受け入れることができず、それを計り、枠に入れ、切り取り、わがものとせずにはいられない人間。だが、その無遠慮なまなざしが、木肌の奥に脈打つ生命にまで達することは決してないだろう。

 

そう思ったとき、思いがけず風が起こり、周りの木々の葉がさわさわと震えると、やがて老木の枝の先、深緑の小山のような葉むらが、ゆったりと揺れた。するとこの木が、時の流れの中を今もゆるやかに旋回し続けていることが、はっきりとわかった。銀河のように渦巻く悠久の時間があらわになり、木肌の裂け目から、細かい光の粒が中で流動しているのが見えた。と同時に、私はなにか深く重苦しい感覚に襲われた。梶井基次郎が書いた「筧の話」の、最後の一節が、頭によみがえってきた。「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている」。

 

風がやむと、生命と時間の謎は、もはや堅い縄目のような幹の奥深くに閉じられてしまっていた。私たちは、木の表面以外に何も映っていない写真だけを手に入れて、ふたたび永遠の退屈を背負いながら、山道を下りていかなければならない。縄文杉までの一本道を、遅れてきた人々が登ってくるのとすれ違う。しかし、人間が作ったこの道と違い、自然界には定まったものなど何もない。そしてそのことを——たとえその片鱗だけでも——知るために、人々は退屈な一本道を歩いて、ここへやってくるのだ。

 

赤潮の快感

 

毎朝、中東カタールの報道チャンネル、アルジャジーラのニュースを見ている。そこにこの四年間必ず登場してきた人物がいる。誰あろう第45代アメリカ大統領、ドナルド・トランプだ。


念のため言っておくと、アルジャジーラはリベラルである。だからトランプについてのニュースのトーンは批判的だ。私自身も反トランプのつもりである。なぜ反トランプか、という理由はあらためて言うまでもないだろう。というより、トランプを支持している人がいるということが、不思議でしょうがなかった。そういう人は、私以外にも多いに違いない。


ところが、最近あることに気づいたのだ。それは自分が、あの自惚れと欺瞞と暴力を日々垂れ流す人物がニュースに現れるのを、毎日楽しみにしている、という事実である。これは一体どういう心理なのだろう?


先日、F・ガタリが30年前に書いた『三つのエコロジー』(平凡社)を読んでいると、当時不動産王だったトランプのことを、海で突然繁茂して魚を殺す赤潮にたとえていた。そうかさすがだな、と思ったのは、トランプ(という現象)を単に社会的なものとしてでなく、生物学的なものとしてとらえていたところだ。トランプ政権こそが、コロナウィルスをはびこらせてきた当のものであることを考えると、ガタリの洞察はまさに予言的というべきだろう。まるでトランプ自身がガタリの言ったことをなぞっているようでもある。つまり、トランプとはウィルスそのものなのだ。


だが同時に、それはどうだろう、と思わずにいられなかったのは、ガタリ赤潮/トランプ(=ウィルス)を、対抗しなければならない「悪」としてとらえている(ように見えた)ことだ。しかし、何をもって赤潮/ウィルス/トランプを悪であるとみなし得るのだろう。もちろんそれは、赤潮が魚を殺すように、ウィルスが人命を脅かし、トランプが自己の利益を優先して他者の権利を奪うからだ。だが、魚や人の命は、少なくとも赤潮やウィルスより「善」であると、確実に言えるのだろうか?


もちろんガタリにとってはそうなのだろう。しかし私はここで、ううむ、と唸らずにはいられない。本来自然界には、因果関係はあっても善悪の関係はないはずである。自然界の善悪は神様(いればの話だが)だけが決めるので、善い自然現象、悪い自然現象などというものは、人間が自分の利害の都合で言っているにすぎないのだから。するともしガタリの卓見が、トランプという社会現象を生物学的なものととらえることにあるのなら、それを結局、善悪の問題に帰着させてしまっては話があべこべではないだろうか。


詭弁だ!という声が聞こえてきそうだが、もう少し考えてみたい。赤潮もウィルスの蔓延も、当然トランプも、天災である前に人災ではないか?もちろんそれは私も否定しない。だが私が言いたいのは、そうした人為をも自然現象の一種として見ることができるのではないか、ということだ。つまり、いわば自然の循環に巻き込まれた人間の自壊現象として。


馬鹿げた逆説だ!それなら独裁者も、自然破壊も、核爆弾も、戦争だって自然現象であり、悪ではないということになるではないか?たしかに善悪が存在するという立場からすれば、それらは悪だろう。しかし善悪のない自然から見れば、そうした厄災はおろか、人類の滅亡すらも、悪ではないといえる。もちろん善でもないが。


ここまで考えたとき、私はハッと思い至った。もしかしてこれが、トランプを支持する人々の無意識なのではないか?そしてトランプは直感的に、メディアというものが、その表向きの「内容」とは裏腹に、こうした無意識や自然現象に似た働き方をすることを知っているのではないか?実際、リベラルな善意を標榜する大手メディアがこぞってトランプを「悪」として糾弾する中で、トランプは善悪の統制が届かないメディアであるツイッターを使って、大衆に向けて語りかける、「メディアを信じるな」と。


もちろん私は、自己意識としては、政治家トランプの退陣を心から歓迎している。それでいながら、メディアの無意識やウィルスの自然と一体化したかのような、トランプという自壊現象を目の当たりにして、ひそかに一種の快感を覚えずにはいられないのだ。そういえば彼はどこか、あのサドの小説の主人公たちに似ているのである。

 

痛みについて

 

このところ舌にできた口内炎に悩まされている。食べると痛いので食欲がわかない。しゃべると痛いので人と話す気にもならない。そうすると、なにか身体や頭脳の働き全体が鈍ってくる。よく物につまずくし、考えもまとまらない。いったいどんなひどいことになっているのかと、患部を鏡に映してみると、なんのことはない、小指の先ほどもないごく小さな傷である。それでこんなにも調子が狂うとは、人間というのはほとほと弱い生き物なのだと、思わずにはいられない。

 

数年前、この口内炎が口中いっぱいにできたことがある。そのころ、日本での仕事に息が詰まっていた私は、やっと暇ができたので、疲れを休める間もなしにヨーロッパに飛んだ。ヴェネチアに着いた朝は、雲ひとつなく晴れわたっていた。私はフライト中の不眠も忘れて、六月の地中海の陽光を身に浴び、キラキラ照り映える運河を眺めて、開放感に浸った。これから数々の楽しい出来事が、おいしい食事や酒が、待っていると思っていた。

 

ところが、その晩から体の調子がおかしくなった。昼間の熱でほてった体が冷めず、頭がぼうっとする。水を飲んでも汗がでない。熱中症だ。翌日からビエンナーレを見て回ったが、体がだるく、集中できない。最初はすぐに治るだろうと甘く見ていたが、三日ほどたっても調子が戻らない。そのうち、喉の奥からヒリヒリ痛み出した。

 

ヴェネチアの後、パラーディオのヴィラを見るためにトレヴィーゾに行った。一面緑のぶどう畑の中に立つ白亜のヴィラは、心の毒を洗い流してくれたが、体の毒の方はそうはいかなかった。やがて口内炎はどんどん広がり、アスピリンを飲まないと食べられないほどになった。海山の幸やワインも楽しめない。病院に行き、抗生剤を処方してもらったが、症状の進行はいっこうに止まらない。

 

熱もあったが、何よりも辛かったのが、口内の痛みだった。そのうち炎症は喉の奥から口の中全体、舌にも広がった。鏡で見ると、赤い穴と黄色い膿の斑点があちらこちらにある。スプーン一杯のスープを飲むのですら激痛が走り、一瞬気を失いそうになる。水を飲むのでさえ痛い。そしてその痛みの強さが尋常でない。人生で何度も経験したことのないほどの痛み。それでも食べなければ弱るから、鎮痛剤の力を借りて少し食べるものの、食事が終わるたび精も根も尽き果てた。

 

治らないまま、トレヴィーゾからライプチヒに移った。イタリアよりドイツの病院の方がまだ期待が持てそうだった。大きな病院に行くと、医師が少し診てから、「プライベートなことを話したいから、付き添いの人は席を外してくれ」と言う。二人きりになると、医師は私に告げた。「君の症状は菌ではなくウィルスによるものだが、三つの可能性がある。そのうち二つはシリアスで、ひとつはシリアスでない。もしシリアスなら、明日から即入院になる」。彼は私に可能性のある病名を伝え、「明日検査の結果が出るから、朝に電話してきなさい」と言った。

 

それで私は、ついに年貢の納め時がきたのか、と思った。病院を出て、泊まっていた家に帰って一息いれると、痛みでもうろうとした意識の中で、死がすぐ隣に感じられた。その病で亡くなった様々な人々の名前が浮かんでくる。そして、そうか、あの病気ってこんなに痛いのか、死ぬのってこんなに痛いのか、と思った。だが不思議と気持ちは安らかに落ち着き、その晩は眠ることもできた。

 

翌朝、病院に電話すると、幸いなことに私の感染していたウィルスはシリアスでないものだった。入院はしなくてもいい、処方した抗ウィルス剤を飲めば、一週間程度で良くなるだろうと。そうなっては前夜の、あの悲壮な思い込みは笑い話に過ぎない。本当に重い病に苦しみ、死と闘っている人に対しては不徳であるともいえるだろう。しかしあの一晩、猛烈な痛みのなかで死を意識したときに、私の心の中に去来したある考えは、忘れることができない。

 

それは、痛み、苦しみは、失われゆく生命を味わうことであり、死に際したひとつの権利である、ということである。これは、熱に浮かされた、倒錯した、あるいは不謹慎な考えだと思われるだろうか。きっとそうにちがいない。実際、私は帰国してから、何人かに、どのように死にたいか聞いてみた。するとほぼ全員が、眠っている間に死にたいとか、意識のないまま苦しまずに死にたいとか答えた。

 

だが、そうだろうか。あの晩以来、私は眠る間に死んだり、痛みや苦しみを感じないで死ぬのは、なにかとてももったいないことに思えてならないのだ。みなぎる生命力の充実を感じることが生の喜びのひとつであるならば、生命力が減退し、消滅していくのを徹底的に経験することもまた、生の醍醐味のひとつなのではないだろうか。いや、むしろ人は往々にして、力が充実して何不自由ないときには、その力には気づかないものである。だが逆に力が失われてゆくときに、苦痛の中でこそ、その力の強さを身をもって知ることができるのではないだろうか。

 

これは考えというより、ひとつの実感だった。おそらくは、苦痛から逃れられないときに、それを無理にでも肯定してやわらげようとする、精神の働きによるものなのだろう。だとしても、その新しい経験は、私に生と死に対するひとつの気づきを与えてくれたような気がした。そう思っていたところ、生田耕作の文章で、ジョルジュ・バタイユが常々、苦痛の中で死にたいと言っていたこと、そして実際その通りに、むごたらしい苦痛の中で死んだということを読んだ。私はバタイユを、少しうらやましく思った。

 

私は結局、死ぬどころか、一週間もたたずに外に出歩けるぐらいになった。今度は帽子とサングラスをしっかり身につけた。まだ足元は少しよろよろしたが、なにか生まれ変わったような気分だった。ライプチヒの古い街並みや公園の樹々は、盛夏の陽射しに輝いていた。苦痛によって洗われた感覚には、葉を揺らす植物も、行き交う人々も、橋の下を流れる水や空をゆく雲も、すべてにみずみずしい生命の力が満ちているように映った。そしてそうした生命すべての隣には、いつもつねに、死がぴったり寄り添っているのが、はっきりと見えた。

 

水辺にて

 

去年の夏はベルリン郊外で過ごした。近くに湖があって毎日のように散歩に出かけた。湖にはいつもさまざまな人が来ていて、泳いだり、岸で甲羅干しをしたり、読書したり、周りの森を散歩したりジョギングしたりしている。たいていは一人で来ていて、めいめい好きなことをしている。そして男も女も老人も若者も、そのあたりで人目を気にすることもなく、服を脱いで素っ裸になってしまう。私も何度か泳いだ。水に浸かると、初めは思いがけない冷たさに身震いしたが、向こう岸まで行って戻ってくる頃には、揺れる緑の中に身体がしみ入っていくような心地を覚えた。

 

ところが、今年の夏は灼熱の東京に閉じ込められてしまった。家にいると息がつまる。遠くに行くわけにもいかない。幸い、私の家は海岸に近い。海岸とはいっても、今は埋め立てられてビルが立ち並ぶ人工島でしかないのだが、少なくとも水はあった。それから私は毎夕、水辺に散歩に出かけるようになった。もちろん、裸になったり泳いだりすることはできないけれども、岸辺で夕陽にキラキラと映える水面を一人眺めていると、いくらか息苦しさが和らぐような気がする。

 

結んではほぐれ、移ろいゆく波紋に眼差しをたゆたわせていると、『孫子』の中のある一節が浮かんでくる。「それ兵の形は水をかたどる。水は高を避け下におもむく。兵は実を避け虚をつく。水は地によりて流を制す。兵は敵によりて勝を制す」。

 

水は高いところを目指さない。それは突出したところを避けて、下の方、地面へと向かう。地面にはさまざまな凹凸がある。水は複雑な地勢に逆らうことなく、その時その場に合わせて形を変える。孫子はそうした水の密やかさ、しなやかさを、戦術の理想として描く。

 

その対極にあるのが、「型」を用いる戦術である。それは細かな変動を一定の型で切り取り、型にはまらない部分を無駄なものとして切り捨てる。だから型を使った方法は非常に効率が良い。たちまち、一見強固な陣地を築き上げる。だが実はその陣地は、すき間だらけである。そしてそのすき間にあるものは、取りこぼしてしまう。

 

水はやわらかく、決まった型を持たない。そよ風にはさざ波をふるわせ、嵐には大波を立てる。そして見落としてしまうような小さなすき間にも、密かに入り込んでいく。ところが、そうした小さなすき間が、やがて新たな流れの始まりとなる。水の戦術は、表立った敵陣を無理して攻めることなく、つねに見えないところ、思いがけないところから、もっともふさわしい動きを見つけていく。だから、変幻自在な水のような力に、型を用いた戦術は太刀打ちできない。

 

もちろん孫子は、戦争について語っているのだが、この思想は必ずしも争いにのみ当てはまるわけではない。たとえば「兵」を、美や、芸術や、愛や、欲望などに置き換えてみることもできるだろう。「美は実を避け虚をつく……」、「欲望は対象によりて充足を制す……」。そう考えると、孫子が水に見て取ったものは、とても深いように思われる。何かを本当に動かしたり、生み出したりするためには、定められた形にとらわれず、目を引かないものに目を向けなければならない。そうすることで、変化し続ける自然のエネルギーと一体化し、その力によっておのずから進んでいくことができるのだ。

 

……そう考えながら、周りを見渡してみる。角張ったビルの下、街の人々はみなマスクをして黙りこくり、美しい夕焼けに目をやることもなく、ひたすらスマートフォンの画面を見つめている。仕事のやりとりも、政治や学術の議論も、学校で教え習うのも、芸術を見聞きするのも、友と飲み交わすのも、故郷を懐かしむのも、恋人とむつみ合うのも、すべてがSNSやZoomでおこなわれる「新しい生活様式」。そこでは何をするのにも、デバイスやアプリケーションという「型」を通してでなければならないようだ……。

 

と、水の上を漂うように一艘の船がやって来た。どうやら、ここしばらく休業していた屋形船が、ふたたび出始めたらしい。見ると、甲板に出た船客たちがこちらに向かって、楽しそうに手を振っている。私も応えて手を振った。ここ東京ではほとんど見られなくなった、見知らぬ者どうしの、何気ない束の間の交流。船は目の前をゆっくりと進んでいく。私は少しばかり、心が軽くなったように思った。手を振りながら見送る私と船の間で、夕陽に赤く染まった水が、チャプチャプと小気味良い音を立てていた。