ホワイト・ノイズ

日常の哲学をつづるエッセイ

痛みについて

 

このところ舌にできた口内炎に悩まされている。食べると痛いので食欲がわかない。しゃべると痛いので人と話す気にもならない。そうすると、なにか身体や頭脳の働き全体が鈍ってくる。よく物につまずくし、考えもまとまらない。いったいどんなひどいことになっているのかと、患部を鏡に映してみると、なんのことはない、小指の先ほどもないごく小さな傷である。それでこんなにも調子が狂うとは、人間というのはほとほと弱い生き物なのだと、思わずにはいられない。

 

数年前、この口内炎が口中いっぱいにできたことがある。そのころ、日本での仕事に息が詰まっていた私は、やっと暇ができたので、疲れを休める間もなしにヨーロッパに飛んだ。ヴェネチアに着いた朝は、雲ひとつなく晴れわたっていた。私はフライト中の不眠も忘れて、六月の地中海の陽光を身に浴び、キラキラ照り映える運河を眺めて、開放感に浸った。これから数々の楽しい出来事が、おいしい食事や酒が、待っていると思っていた。

 

ところが、その晩から体の調子がおかしくなった。昼間の熱でほてった体が冷めず、頭がぼうっとする。水を飲んでも汗がでない。熱中症だ。翌日からビエンナーレを見て回ったが、体がだるく、集中できない。最初はすぐに治るだろうと甘く見ていたが、三日ほどたっても調子が戻らない。そのうち、喉の奥からヒリヒリ痛み出した。

 

ヴェネチアの後、パラーディオのヴィラを見るためにトレヴィーゾに行った。一面緑のぶどう畑の中に立つ白亜のヴィラは、心の毒を洗い流してくれたが、体の毒の方はそうはいかなかった。やがて口内炎はどんどん広がり、アスピリンを飲まないと食べられないほどになった。海山の幸やワインも楽しめない。病院に行き、抗生剤を処方してもらったが、症状の進行はいっこうに止まらない。

 

熱もあったが、何よりも辛かったのが、口内の痛みだった。そのうち炎症は喉の奥から口の中全体、舌にも広がった。鏡で見ると、赤い穴と黄色い膿の斑点があちらこちらにある。スプーン一杯のスープを飲むのですら激痛が走り、一瞬気を失いそうになる。水を飲むのでさえ痛い。そしてその痛みの強さが尋常でない。人生で何度も経験したことのないほどの痛み。それでも食べなければ弱るから、鎮痛剤の力を借りて少し食べるものの、食事が終わるたび精も根も尽き果てた。

 

治らないまま、トレヴィーゾからライプチヒに移った。イタリアよりドイツの病院の方がまだ期待が持てそうだった。大きな病院に行くと、医師が少し診てから、「プライベートなことを話したいから、付き添いの人は席を外してくれ」と言う。二人きりになると、医師は私に告げた。「君の症状は菌ではなくウィルスによるものだが、三つの可能性がある。そのうち二つはシリアスで、ひとつはシリアスでない。もしシリアスなら、明日から即入院になる」。彼は私に可能性のある病名を伝え、「明日検査の結果が出るから、朝に電話してきなさい」と言った。

 

それで私は、ついに年貢の納め時がきたのか、と思った。病院を出て、泊まっていた家に帰って一息いれると、痛みでもうろうとした意識の中で、死がすぐ隣に感じられた。その病で亡くなった様々な人々の名前が浮かんでくる。そして、そうか、あの病気ってこんなに痛いのか、死ぬのってこんなに痛いのか、と思った。だが不思議と気持ちは安らかに落ち着き、その晩は眠ることもできた。

 

翌朝、病院に電話すると、幸いなことに私の感染していたウィルスはシリアスでないものだった。入院はしなくてもいい、処方した抗ウィルス剤を飲めば、一週間程度で良くなるだろうと。そうなっては前夜の、あの悲壮な思い込みは笑い話に過ぎない。本当に重い病に苦しみ、死と闘っている人に対しては不徳であるともいえるだろう。しかしあの一晩、猛烈な痛みのなかで死を意識したときに、私の心の中に去来したある考えは、忘れることができない。

 

それは、痛み、苦しみは、失われゆく生命を味わうことであり、死に際したひとつの権利である、ということである。これは、熱に浮かされた、倒錯した、あるいは不謹慎な考えだと思われるだろうか。きっとそうにちがいない。実際、私は帰国してから、何人かに、どのように死にたいか聞いてみた。するとほぼ全員が、眠っている間に死にたいとか、意識のないまま苦しまずに死にたいとか答えた。

 

だが、そうだろうか。あの晩以来、私は眠る間に死んだり、痛みや苦しみを感じないで死ぬのは、なにかとてももったいないことに思えてならないのだ。みなぎる生命力の充実を感じることが生の喜びのひとつであるならば、生命力が減退し、消滅していくのを徹底的に経験することもまた、生の醍醐味のひとつなのではないだろうか。いや、むしろ人は往々にして、力が充実して何不自由ないときには、その力には気づかないものである。だが逆に力が失われてゆくときに、苦痛の中でこそ、その力の強さを身をもって知ることができるのではないだろうか。

 

これは考えというより、ひとつの実感だった。おそらくは、苦痛から逃れられないときに、それを無理にでも肯定してやわらげようとする、精神の働きによるものなのだろう。だとしても、その新しい経験は、私に生と死に対するひとつの気づきを与えてくれたような気がした。そう思っていたところ、生田耕作の文章で、ジョルジュ・バタイユが常々、苦痛の中で死にたいと言っていたこと、そして実際その通りに、むごたらしい苦痛の中で死んだということを読んだ。私はバタイユを、少しうらやましく思った。

 

私は結局、死ぬどころか、一週間もたたずに外に出歩けるぐらいになった。今度は帽子とサングラスをしっかり身につけた。まだ足元は少しよろよろしたが、なにか生まれ変わったような気分だった。ライプチヒの古い街並みや公園の樹々は、盛夏の陽射しに輝いていた。苦痛によって洗われた感覚には、葉を揺らす植物も、行き交う人々も、橋の下を流れる水や空をゆく雲も、すべてにみずみずしい生命の力が満ちているように映った。そしてそうした生命すべての隣には、いつもつねに、死がぴったり寄り添っているのが、はっきりと見えた。