ホワイト・ノイズ

日常の哲学をつづるエッセイ

水辺にて

 

去年の夏はベルリン郊外で過ごした。近くに湖があって毎日のように散歩に出かけた。湖にはいつもさまざまな人が来ていて、泳いだり、岸で甲羅干しをしたり、読書したり、周りの森を散歩したりジョギングしたりしている。たいていは一人で来ていて、めいめい好きなことをしている。そして男も女も老人も若者も、そのあたりで人目を気にすることもなく、服を脱いで素っ裸になってしまう。私も何度か泳いだ。水に浸かると、初めは思いがけない冷たさに身震いしたが、向こう岸まで行って戻ってくる頃には、揺れる緑の中に身体がしみ入っていくような心地を覚えた。

 

ところが、今年の夏は灼熱の東京に閉じ込められてしまった。家にいると息がつまる。遠くに行くわけにもいかない。幸い、私の家は海岸に近い。海岸とはいっても、今は埋め立てられてビルが立ち並ぶ人工島でしかないのだが、少なくとも水はあった。それから私は毎夕、水辺に散歩に出かけるようになった。もちろん、裸になったり泳いだりすることはできないけれども、岸辺で夕陽にキラキラと映える水面を一人眺めていると、いくらか息苦しさが和らぐような気がする。

 

結んではほぐれ、移ろいゆく波紋に眼差しをたゆたわせていると、『孫子』の中のある一節が浮かんでくる。「それ兵の形は水をかたどる。水は高を避け下におもむく。兵は実を避け虚をつく。水は地によりて流を制す。兵は敵によりて勝を制す」。

 

水は高いところを目指さない。それは突出したところを避けて、下の方、地面へと向かう。地面にはさまざまな凹凸がある。水は複雑な地勢に逆らうことなく、その時その場に合わせて形を変える。孫子はそうした水の密やかさ、しなやかさを、戦術の理想として描く。

 

その対極にあるのが、「型」を用いる戦術である。それは細かな変動を一定の型で切り取り、型にはまらない部分を無駄なものとして切り捨てる。だから型を使った方法は非常に効率が良い。たちまち、一見強固な陣地を築き上げる。だが実はその陣地は、すき間だらけである。そしてそのすき間にあるものは、取りこぼしてしまう。

 

水はやわらかく、決まった型を持たない。そよ風にはさざ波をふるわせ、嵐には大波を立てる。そして見落としてしまうような小さなすき間にも、密かに入り込んでいく。ところが、そうした小さなすき間が、やがて新たな流れの始まりとなる。水の戦術は、表立った敵陣を無理して攻めることなく、つねに見えないところ、思いがけないところから、もっともふさわしい動きを見つけていく。だから、変幻自在な水のような力に、型を用いた戦術は太刀打ちできない。

 

もちろん孫子は、戦争について語っているのだが、この思想は必ずしも争いにのみ当てはまるわけではない。たとえば「兵」を、美や、芸術や、愛や、欲望などに置き換えてみることもできるだろう。「美は実を避け虚をつく……」、「欲望は対象によりて充足を制す……」。そう考えると、孫子が水に見て取ったものは、とても深いように思われる。何かを本当に動かしたり、生み出したりするためには、定められた形にとらわれず、目を引かないものに目を向けなければならない。そうすることで、変化し続ける自然のエネルギーと一体化し、その力によっておのずから進んでいくことができるのだ。

 

……そう考えながら、周りを見渡してみる。角張ったビルの下、街の人々はみなマスクをして黙りこくり、美しい夕焼けに目をやることもなく、ひたすらスマートフォンの画面を見つめている。仕事のやりとりも、政治や学術の議論も、学校で教え習うのも、芸術を見聞きするのも、友と飲み交わすのも、故郷を懐かしむのも、恋人とむつみ合うのも、すべてがSNSやZoomでおこなわれる「新しい生活様式」。そこでは何をするのにも、デバイスやアプリケーションという「型」を通してでなければならないようだ……。

 

と、水の上を漂うように一艘の船がやって来た。どうやら、ここしばらく休業していた屋形船が、ふたたび出始めたらしい。見ると、甲板に出た船客たちがこちらに向かって、楽しそうに手を振っている。私も応えて手を振った。ここ東京ではほとんど見られなくなった、見知らぬ者どうしの、何気ない束の間の交流。船は目の前をゆっくりと進んでいく。私は少しばかり、心が軽くなったように思った。手を振りながら見送る私と船の間で、夕陽に赤く染まった水が、チャプチャプと小気味良い音を立てていた。