ホワイト・ノイズ

日常の哲学をつづるエッセイ

赤潮の快感

 

毎朝、中東カタールの報道チャンネル、アルジャジーラのニュースを見ている。そこにこの四年間必ず登場してきた人物がいる。誰あろう第45代アメリカ大統領、ドナルド・トランプだ。


念のため言っておくと、アルジャジーラはリベラルである。だからトランプについてのニュースのトーンは批判的だ。私自身も反トランプのつもりである。なぜ反トランプか、という理由はあらためて言うまでもないだろう。というより、トランプを支持している人がいるということが、不思議でしょうがなかった。そういう人は、私以外にも多いに違いない。


ところが、最近あることに気づいたのだ。それは自分が、あの自惚れと欺瞞と暴力を日々垂れ流す人物がニュースに現れるのを、毎日楽しみにしている、という事実である。これは一体どういう心理なのだろう?


先日、F・ガタリが30年前に書いた『三つのエコロジー』(平凡社)を読んでいると、当時不動産王だったトランプのことを、海で突然繁茂して魚を殺す赤潮にたとえていた。そうかさすがだな、と思ったのは、トランプ(という現象)を単に社会的なものとしてでなく、生物学的なものとしてとらえていたところだ。トランプ政権こそが、コロナウィルスをはびこらせてきた当のものであることを考えると、ガタリの洞察はまさに予言的というべきだろう。まるでトランプ自身がガタリの言ったことをなぞっているようでもある。つまり、トランプとはウィルスそのものなのだ。


だが同時に、それはどうだろう、と思わずにいられなかったのは、ガタリ赤潮/トランプ(=ウィルス)を、対抗しなければならない「悪」としてとらえている(ように見えた)ことだ。しかし、何をもって赤潮/ウィルス/トランプを悪であるとみなし得るのだろう。もちろんそれは、赤潮が魚を殺すように、ウィルスが人命を脅かし、トランプが自己の利益を優先して他者の権利を奪うからだ。だが、魚や人の命は、少なくとも赤潮やウィルスより「善」であると、確実に言えるのだろうか?


もちろんガタリにとってはそうなのだろう。しかし私はここで、ううむ、と唸らずにはいられない。本来自然界には、因果関係はあっても善悪の関係はないはずである。自然界の善悪は神様(いればの話だが)だけが決めるので、善い自然現象、悪い自然現象などというものは、人間が自分の利害の都合で言っているにすぎないのだから。するともしガタリの卓見が、トランプという社会現象を生物学的なものととらえることにあるのなら、それを結局、善悪の問題に帰着させてしまっては話があべこべではないだろうか。


詭弁だ!という声が聞こえてきそうだが、もう少し考えてみたい。赤潮もウィルスの蔓延も、当然トランプも、天災である前に人災ではないか?もちろんそれは私も否定しない。だが私が言いたいのは、そうした人為をも自然現象の一種として見ることができるのではないか、ということだ。つまり、いわば自然の循環に巻き込まれた人間の自壊現象として。


馬鹿げた逆説だ!それなら独裁者も、自然破壊も、核爆弾も、戦争だって自然現象であり、悪ではないということになるではないか?たしかに善悪が存在するという立場からすれば、それらは悪だろう。しかし善悪のない自然から見れば、そうした厄災はおろか、人類の滅亡すらも、悪ではないといえる。もちろん善でもないが。


ここまで考えたとき、私はハッと思い至った。もしかしてこれが、トランプを支持する人々の無意識なのではないか?そしてトランプは直感的に、メディアというものが、その表向きの「内容」とは裏腹に、こうした無意識や自然現象に似た働き方をすることを知っているのではないか?実際、リベラルな善意を標榜する大手メディアがこぞってトランプを「悪」として糾弾する中で、トランプは善悪の統制が届かないメディアであるツイッターを使って、大衆に向けて語りかける、「メディアを信じるな」と。


もちろん私は、自己意識としては、政治家トランプの退陣を心から歓迎している。それでいながら、メディアの無意識やウィルスの自然と一体化したかのような、トランプという自壊現象を目の当たりにして、ひそかに一種の快感を覚えずにはいられないのだ。そういえば彼はどこか、あのサドの小説の主人公たちに似ているのである。